10/28(木)

26日に書いたパッシング映画について調べていた。 まずパッシングと言う言葉は、「passing for white」あるいは、「racial passing」といった言い回しから来ていて、色の薄い黒人が、白人になりすます事に使う事が多いようだ。そのことを正面から取り上げた映画は、そんなに多くはないようで、未見の映画は少ない。未見で一番見たいのが「ピンキー(1946)」。エリア・カザンの作品で、今年wowwowでやったらしいので、誰か録画した人、貸して下さいな。
 さらにネットを探っていたら、「パッシング映画」について、日本人が書いた論文が二つほどひっかっかってきて、その中に、いわゆるパッシングとは違う意味の「白い黒人」という記述があった。ノーマン・メイラーが1959年に書いたエッセイに"The White Negro"と言うのがあるらしいのだ。50年代ヒップスターの定義として、「死の条件を受け入れ、身近な危険としての死とともに生き、自分を社会から切り放し、根なし葛として存在し、自己の反逆的な至上命令への、地図もない前人未到の旅に立つことをよしとする人間」と書いて、これは「アメリカの黒人が日々を生き抜いていく上での条件に重ね合される」というのだ。
 やっぱりそうだったか。ケルアックの「オン・ザ・ロード」の中で、ニール・キャサディとおぼしき人物が、黒人クラブに紛れ込んで、スリム・ゲイラードとおぼしきバンドを目の当たりにし、狂喜乱舞するシーンがあるが、それを読んだときから、僕は漠然とヒップムーブメントというのは、若い白人達が、積極的に黒人文化に目ざめ、生き方においても同化したいと願った所から始まったのじゃないかと感じていたのだ。黒人になりすます白人である。
 まぁ、意図的に「死とともに生き、地図もない旅に立つ」白人と、否応なく生まれ落ちたときから、そうならざるおえなかった黒人と一緒なワケは全然ないですが・・・。白人という保証の中でやってたって・・・ねぇ。「憧れ」としてはわかりますが・・・。
 さらに、面白い映画としては、奨学金を何とか得ようと、変な薬を飲んで肌の色を黒くして大学に入学する「ミスター・ソウル・マン(1986)」というコメディーや、差別主義者の白人が、ある朝起きたら黒人になっていて、いわれなき差別を受けるという「ウォーター・メロン・マン」なんてのもあります。「ウォーター・メロン・マン(1970)」は、黒人役者が白塗りをして主役をやっているという、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ監督ならではの逸品。
 もうひとつ踏み込んで、すげぇのを紹介しちゃおう。天才外科医が、自分の優秀な脳ミソを、健康な体に移植して生きながらえたいと、死んでもアシが付かない死刑囚の体に頭を移植する。一度に変えてしまうと拒否反応が起こるらしく、最初は肩につけて双頭にしておいて、馴染んでから前のを取っちゃうのだが、その途中で頭を二つ付けたまま逃走しちゃうんですな。そして、その死刑囚というのが、博士が大嫌いな黒人なわけです。「Mr.オセロマン/2つの顔を持つ男」。役者さんは、汗みどろの変形二人羽織みたいな大熱演ですが、な・・・なんともはや・・・・。
by ahoinu_diary | 2010-11-04 17:39 | 2010.10